渋谷陽一
契約社員として1年間弱、ロッキング・オンで働いたことがあります。社長(渋谷陽一)直属で、bridgeという雑誌の編集をしていました。季節に1冊出版する季刊誌だったので、正直僕はあんまり忙しくなくて、周囲が忙しそうだからなんとなく自分もあわせて忙しくしていたような気がします。bridgeという雑誌は当時音楽雑誌で、辞めたあと本屋でちらっと見たときは政治だか哲学だかにも触れてるサブカルっぽくなってるなーといった感じになっていましたが、最終的にどうなっていたのかは知りません。雑誌編集の他に、仲井戸"CHABO"麗市さんの単行本の担当もしました。社長がインタビューしたり、他のアーティストとの対談内容を、ぼくはあとから録音されたものを聞いて、外部の人が文字にしてくれたものを読んで、それらをひっくるめていい感じにまとめる(編集する)仕事をしていました。
正直言って、編集の仕事そのものは、ロッキング・オンに入る前にやっていた旅行雑誌の編集の内容と本質的にあまり変わらず、「人生をかける仕事がこれなのかな…」という疑問が常に頭の中のどこかにあったり、胸にチクチク刺さっていたりしていました。
ただ、社長が対談する前に、アーティストと社長や、アーティストと僕の上司の社員が話しているのを横で聞いているときとか、インタビューの後社長がボソッと呟いた一言とか、インタービューが文字起こしされた原稿見ながらインタビューの音源を聞いている時とかに、時々凄くしびれる言葉がありました。言葉じゃなくても、例えば山下達郎さんがホテルの部屋にのそのそ入って来たときの空気感とか、雨の中車から降りてビニール傘差した時のCharさんの姿とか、物凄く前のめりになって社長と話している降谷建志とかetc……。神々しいほどの一瞬を目の当たりにすることがありました。
凄い方々の一瞬や、一言にビリビリして、それを雑誌や本にまとめて世に出す仕事に生きがいを感じるよりも、自分が命かけて頑張りたいって思う自分のための何かのためにもっと頑張んなきゃなという想いがどんどん強くなる1年弱でした。
ロッキング・オンで働いた期間は1年弱と非常に短いですが、あの時期がなかったらもしかすると僕はだらだらと、編集という仕事を続けていたかも知れません。凄い人たちを見て、世界行ったる!!と思って日本語教師になって、そのとき日本から最も遠い国で日本語教師を募集していたメキシコへ行きました。と言うと、わき目も降らず日本語教師になって行ったような感じですが、全然そんな感じではなくて、ああでもない、こうでもない、どうしたらいいか、ムムム…とずーっと悩みこみながら、長野の野菜畑で住み込みの仕事をしてみたり、友達の家に居候したり、知り合いになった大阪のログハウスの喫茶店に住まわせてもらったり、絶対に二度としたくないような根無し草、糸の切れた凧のような暮らしをした挙句にメキシコへ行くことになりました。
20代後半の訳の分からない時期があったから、今の自分があるとは思いますが、迷走していた20代後半とか、日本語教師になってから迷走していた30代とかは、やっぱ迷走はしたくなかったなぁと思います。迷走なんかしないで、大学卒業してサクッと先生になっておけば、もっと早く結婚してもっと早く子供たちに出会えたかもしれません。でもそうすると、今の妻や子供とは出会えていないわけなので、迷走して良かったのか?とも思います。人生よく分かりません。
どうでもいいけど、ロッキング・オンの自分の机の引き出しからブラックサバスのピンバッジが出て来て、ふと社長に「これ要ります?」と聞いたら、なぜかちょっと張った声で「みんな俺がヘビメタ嫌いだって思ってるみたいだけど、別に俺嫌いじゃないんだよな」って、いつもの笑顔で言っていたことを思い出しました。