古来、稲妻は稲を実り豊かに育てるものだと信じられているものでした。

子供たちが実り豊かに育つことを願い、人が生まれた時から持っているはずの知的好奇心を刺激し育て満たすことを目指してStudyRoomイナヅマ学習塾を開きました。

稲の苗

保育園や幼稚園では、お絵描きも泥遊びもかけっこもLaQもLEGOもお手紙も折り紙も全部「お遊び」です。学校に入学するとそれが、国語と算数(数学)と分かれていって、いつの間にか「勉強」は「お遊び」から取り出されてなにか特別なヤルベキコトになってしまいます。ソンナコトナイ! もともと楽しい「お遊び」だった勉強は、大きくなっても楽しいものです。

さくっとイナヅマで楽しく勉強に取り組みましょう⚡

勉強はその人が自分でやるものです。長時間勉強させられても心閉じていたら悪夢としてすぐ忘れようとします。だからイナヅマ学習塾では全力で、楽しい勉強を促します。シブシブ塾に来はじめた生徒も多いですが、1か月もしないうちに宿題・課題を自ら進んでヤルようになります⚡

生徒の学ぶべき箇所を見つけ出し、生徒のヤル気ポイントを見つけ出して全力で促します。トレーナーやコーチのように生徒の学習を整えます。目標設定と今やるべきことがはっきりわかれば生徒はがんばります。気が付けば、楽しいとか辛いとか気分とか関係なく、今やるべきことをコツコツやって得られる充実感、満足感、達成感が生徒本人を勉強に向かわせているのではないかと思います。

塾長

リビング教室大テーブルに座っている塾長
塾長です

福岡教育大学附属福岡中学校入学(中3で転校)→島根県松江市立第三中学校卒業→島根県立松江北高等学校卒業→横浜国立大学入学(その後除籍)→東洋工学専門学校(現・東京環境工科専門学校)卒業→日本大学卒業→放送大学大学院修士課程卒業(情報学プログラム修士号取得🎓)

雑誌編集→日本語教師→専門学校教員→開塾⚡

おまけ

生まれたばかりの娘と小学生になった息子を抱える塾長

二児のパパです。小学2年生と1歳の子がいます。小学生の頃は機動戦士ガンダムや未来少年コナンといったアニメや、キン肉マン、キャプテン翼、Dr.スランプあられちゃんなど掲載されていた頃の少年ジャンプなどの漫画を読んだり、将棋を指したり、町内会のソフトボールでピッチャー兼サードをしたり、近所の友達と一緒にのんびり過ごしていました。ところが、小学校を卒業した後の進学先の中学校が派手に荒れててものすごく怖かったので塾など通ってダメもとで附属中学校を受験したところ運よく合格できたので荒れていない平穏な学校へ進学でき喜んだのですが、これまで結構優秀だと思っていた鼻っ柱をへし折られました。上には上がいるものです💦

中3の時、父の転勤で家族みんなで島根県の県庁所在地松江に転居しました。九州とは異なり、穏やかな山陰地方で方言や文化の違いに驚きながらのんびりまったりサッカー部に入ったりして過ごしました。毎日、穏やかな宍道湖畔を自転車漕いで暮らしたこの時期ほど平和だった日々はありません。

私は英語が超絶苦手だったのですが、他の教科を猛勉強してなんとか辻褄合わせて、なんとなく名前の格好いい大学ーー横浜国立大学に現役合格しました。日本の景気が物凄くよかった時代、「いい学校行っていい会社就職するのが一番!」と言われていました。「大学なんてどこ行っても一緒」「大学行ってから遊べ」とも言われていました。ところが行ってみて驚きました。「大学は自分が学びたいと思うことをとことん学べる場所」でした。私は「遊べる~!」と思って、高校時代のノリで言ったのですがなんと、「出席しなくてもいいから、10冊本読んでレポート提出すること」とか、「見ず知らずの人たちとその場でグループ作って『ゴミとはなにか?』議論して発表して教授が総論をまとめる」とか、今まで受けてきた勉強とは全く異なる世界でした。「大学行ったら思う存分小説読んで、音楽聞きまくって、オートバイの免許取って旅行しまくりたい」と思っていたので、その通りに過ごして、結局大学を辞めることになりました。文章が好きだったので、編集アシスタントのアルバイトをずっとしていたのですが、そこで働く編集者の方に「編集の仕事したいなら何か特技とか専門性が必要よ」と言われました。子供のころから自然の中で遊ぶのは大好きだったので、自然環境について学ぼうと思い、C.W.ニコルが開校した専門学校に入学しました。長野県黒姫の実習地で一週間風呂なしでティピ(中で焚火ができるバカでかいテント)で仲間と過ごしながら生き物の観察やフィールドワークについて学びました。ニック(C.W.ニコル)は「卒業したらレンジ(範囲)の広い人になってください」と言っていたことがとても印象的でした。

1990年頃に撮影した塾長が所属していた松江北高等学校サッカー部の写真
塾長が高校生だった頃のサッカー部集合写真

「世界は広い。色々な価値がんがある。進んだ先に自分のやりたいことがありそうだ」なんて思いました。

専門学校卒業後は旅行ガイドブックの編集プロダクションに入社しました。スイスを取材に行ったライターさんの原稿と写真をまとめてガイドブックを作りました。半年で4日しか休日がなくて本当につらかった…。ガイドブック1冊担当してキリのいい時期に転職活動したら音楽雑誌社の契約社員に合格できたので「やった!大好きな音楽と文章にまみれた暮らしができる!」と思ったのですが、寝ても覚めてもずっと仕事。音楽も文章も好きだけど、週に1日か2日は休みたい。一生毎日音楽と文章にまみれて暮らすしかないのだとしたら、せめて一度、外国で暮らしたい。ニックが言った「レンジを広げる」ことを自分もやりたいと思い、日本語教師の資格を取ってメキシコへ渡りました。

日本語教師になって最初の勤務校、日本メキシコ学院のグランドでサッカーをしている塾長。
メキシコでサッカー

メキシコに対する事前情報はほぼゼロでした。なーんもしりません。メキシコについて最初に入ったレストランで、なんか緑色の液体を置かれたので全部飲み干しました。あとで知ったのですが、それはサルサヴェルデというタコスのたれでした。そのくらい何にも知らない国での暮らしは、本当にめちゃくちゃ面白くて楽しくて最高の日々でした。嫌なことももちろんありますが、そんなことどうでもいいくらい毎日が驚きと発見に満ちていました。きっと肌に合っていたんだろうなぁと思います。いつか時間とお金に余裕があったらまた行ってみたいです。

世界で暮らすための手段として日本語教師を選んだのですが、日本語教師の仕事はとても面白くて、やりがいを強く感じる魅力的な内容でした。教えれば教えるほど、日本語教師養成講座で学んだだけでは足りてないなと思い、一度帰国してしっかりじっくり学び直して一生の仕事にしようと考えました。そうして帰国して、日本大学の文学部に通信制で入学して学びながら、日本語教師や塾講師、家庭教師という仕事をしました。なにかを教えるという仕事を、大学で学ぶと同時に、日本語教育機関や学習塾、家庭教師などで実際に取り組むことで教えることについて凄く学ぶことができました。おかげで教える技術が凄く身についたように思います。

大学を卒業後、日本語教師として専門学校教員となりました。専門学校では留学生に日本語を教えていました。同時に、放送大学大学院に入学し、パソコンなどを使った教育の研究を進めたので情報学の修士号を取得しました。情報学修士を取ったので、専門学校では留学生だけではなく日本人学生向けのパソコンを使った授業(MOSやITパスポートなど)も担当するようになりました。

さまざまなことをしながらも、ずっと教育に携わってきました。50歳にして第2子が生まれること、長男の将来のこと、自分が今までやってきたことなど考えて、大好きな三苫ビーチに近いところに塾を開いて、自分の持てる力を注ぎ、この地域の発展の一助となりたいと決心し、和白エリアにStudyRoomイナヅマ学習塾を開塾しました⚡

イナヅマ学習塾にある国語の教材

学びの特徴

イナヅマ学習の進め方

StudyRoomイナヅマ学習塾の教室の入り口からの眺め

コースと料金

授業時間とお月謝

StudyRoomイナヅマ学習塾の駐車場で旗めいている新しい幟

アクセス

イナヅマへの道