「叱るか叱らない」か
「叱っても全く効果ない」と言った内容のツイートがちょっと話題になっていて、世の中的には賛成意見が多いようですが、反対意見も根強くあるようですね。
時と場合と人に寄るんじゃないですかね。基本的に叱るのって疲れるから、誰だって本当は叱りたくないものじゃありませんか? 叱ることでドーパミンが出て快楽を感じる人も~とかなんとかいう方もいらっしゃるようですが、ドーパミンってどのタイミングで出るんでしょう? 叱りながらだんだん盛り上がってきてドーパミン出ているとしたら、叱る前には出ていない? だとしたら、ドーパミンは「叱るか叱らないか」ではなく「叱り続けること」に対する問題点の切り口かなと思います。問題が起こった瞬間、ドーパミン出て叱り始めるのかな…。時々無暗に自分より弱そうな人に向かって怒っている方見かけますが、ああいう方は最初っからドーパミンが出ているのかもしれません。ただ「叱るか叱らないか」という問題を考える上で、最初っからドーパミン出して怒っている方を含めるのはどうかな?と思います。はなっからドーパミン出ているならそれはもう「叱るか叱らないか」という2択ではなく「叱る」1択だと思うんですが…。ってかドーパミン出ているかどうかってどうやって判断できるんですかね。自分で何か分かる方法あるならスマートウォッチに搭載して計測させてほしいものです。
そもそも、人と人が分かり合うのって簡単じゃありません。だからドラマがあるし、小説があるし、歌が生まれる。ある意味人類普遍のテーマの一つだと思います「人と人が分かり合う」っていうことは。
普通に分かり合うことが難しい他人同士が、「叱るか叱らないか」で指導の効果があるかどうかなんて、分かるわけがない。他人同士が普通に理解し合うことすら難しいのに、問題が起きたときにどう修正するか、対応するか、どうすれば教育的効果が表れやすいのか、学べるのかといったことに対して、「叱るか叱らないか」2極化することで問題解決できるわけがない。
「叱るか叱らないか」で教育的効果が分かれるのなら、叱らないで教育・指導する方法を自動化・AI化して、アプリ化ソフト化してスマホやコンピューターに搭載して、人がそのAIに指導してもらえばいい。えー、そんなの無理だとおもうけどなー。
ネットで「叱るか叱らないか」がバズっていたとき、オモシロそうだな―と思って、叱る意見の本と、叱らない意見の本の両方をネットで買いかけていました。でもちょっと考えて買うの辞めました。
「バカの壁」でも読んだ方が良いような気がします。